2016年8月26日金曜日

チョーイイ感じ。

本日制作中の木地。


今、制作中の木地が超イイ感じなんですぅ。

今日はこういった書き出しでブログを書いてゆこうと思います。こういった自己賛辞を円滑に書き記す為には自愛と多少の自己肥大が必要で、なにも謙虚に慎ましく制作に取り組んでいる場合には、なかなかそういった思いは屹立するまでも無く、もしもそうした状況で、この手法的な思考が了解できるのであれば、経済観念のなせる技なのだろうと思われます。
半ば嘘でもしらじらしい言葉というものは、記述すら難しいもので、この「超イイ感じなんです」という書き出しで文章を構成しゆこうとする場合、多少の陶酔と感情的に自己肯定ができそうな読み物が必要です。

ですから今朝は景気付けにカップ酒を飲み干し、今読んでいる「ヴィオルヌの犯罪」、デリダの「他の岬」をリュックサックに詰め込み祖母の形見のデスコメットクルーのカセットをイヤホンで聴きながら仕事場へと向かったのでした。

自転車に乗って数分、ちょうど1キロ位のところで一台のパトカーらしきものが隣にゆっくりと近づいて来ました。
中には2人の男性が乗っており、車脇の窓を半分開けて自転車を止めるようにジェスチャーしていました。自転車を止めて慌ててイヤホンを耳から外しました。どうやら職務質問のようです。
自転車の所有者であるかの有無、現在の職業、危ないものを持っていないかなどと、、、、、質問されたのでした。
なるべく道草は避けたいので、矢継ぎ早に聞かれるまま思った事、感じたこと、この「超イイ感じなんです」という書き出しの極めて虚偽性の高いブログを今日は書こうと思っているとの事を彼らに伝えたのでした、、、、、。

すると、、、どうでしょう。無線機で何やら応援を呼びはじめ、みるみる警察官が増えてゆきパトカーに囲まれ身動きが出来ない状態になってしまいました。どうやら罪を犯したようなのす。

記憶にあるのは、リュックの中の本についての質問、
「これ、このデリダのこれは脱構築してる?脱構築だよね、、、、これ何聞いてるの?これ、ラメルジーだよね?これはレベルミュージックだよね、、、、、」といった警察官の言葉の断片。


と、こういった状況は誰にでもあり得る現象です。
この「超イイ感じなんです」という言葉の危険性とそこに潜む自己肥大が、自己了解するパロールを阻害し虚偽と虚構と現実の境界を曖昧にしてしまうという現象は言語的リアリズムの脆弱性が根底にあるからなのでしょうか。

とにかく疑問は置いといて、今日制作中の木地が超イイ感じなんです、、、、、。


荒取り、超イイ感じ。

この彫、超イイ感じ。

まわりの木くずもイイ感じ。

裏を彫るのも、

イイ感じ。


と、イイ感じについて疑念があるかもしれませんが、どうぞよろしくお願い致します。



2016年8月20日土曜日

真夏の読みもの。

ジャック・デリダ、他の岬


今月のブログ更新がおろそかになってしまった最大の原因、今日は夏休み(風邪で寝込んで何もできなかった)で読んだ本の話をしようと思います。

上の画像にもあるようにデリダの素敵な本です。ペレストロイカ後にデリダが上梓した本なのだそうですが 可愛い装丁に騙されるな。といわんばかりのデリダ節、、、、、。

ペレストロイカ後にデリダが東西のヨーロッパにおける先端的岬、先端的資本主義、を同一化してとらえて脱構築しながらもヨーロッパを一つのものとして見てゆこう、、、、、、と中々手強い内容なのです。
いつも上京の折に立ち寄る書店で求めたのですが、店主曰く東京では定食屋でのランチタイムにも読まれているのだそうで、この難解なレトリックは都民のささやかな桃源郷なのだそうです。しきりにキャップ(岬=CAPと資本=CAPITALとを同定した言葉)を引き合いに色々に思考を展開してゆくのですが、真夏の風邪のせいかヨーロッパというより寧ろ古代東南アジア一体の文化概要の暗喩に思えてきたのでした。

個人的な話なのですが、スプーンは以前から面白いと思ったモノは手に取る様にしており、この同じ様な形状で異素材で作られた東南アジアのスプーンの事がこのデリダ氏のあの手この手の論述を読みながら脳裏をよぎりました。小さな閉ざされた様に見える文化も大きな視野で捕らえてゆけば自ずと共通する輪郭が見えてくるもので、この小さなスプーンですら文化的な末端の一つなのだ、と何やら熱におかされた気分になってしまいました。
勿論、デリダ氏はそんな自己同定化から様々な方向へと思考を巡らせてゆくのです。

難解な本は夏風邪を癒す力があるのかもしれません。
皆様是非。






ティモール、水牛角でできたスプーン。

フィリピンのココナツスプーン

栞に使うには少し大きい。

栞に使えそうでココナッツ独特のカーブが実用化を阻害。

2016年8月17日水曜日

地下、地下、アンダーグラウンド。

第三のスプーン。

地底人は本当に実在するのでしょうか、、、、、。今日は暑いので地底について考えてみようと思います。

そもそも地底人は、地上人と相反して存在し永遠に出会う機会すら無いのです。なぜでしょう。理由を考えると、まず地上を人類が現在の様に知覚するという現象は、いつの時代かに地下(地底)の存在を自己の中に求めたからなのではないでしょうか。
地上で思う感慨と地下に存在する精神、この一見すると相克する何かは同じベクトルを同定することは出来ないのでしょうか、、、、、。

では、地上には何があるのかと言うと、秩序や社会はもちろんのこと、そこには祈りや信仰の世界すらあるのです。原始的な社会からずっとそうで、その世界への関わりの一つとして物質が存在しその物質性故に世界を知覚する事ができるのです。実用(第一)の道具。祈り(第二)の道具などという考古的な認識もその事実をふまえての事といえます。
今、そういった地上を仮定した場合、地下には知覚を超えた実相があるのかもしれません。実用も祈りも無い、第三の道具、、、、、。
地上には無い地下の道具とは、、、、、、と、そんな事を考えて物を作るのもたまには良いのかも、、、しれません。



長さ:22㎝

幅:5.2cm

第三の匙どうぞよろしくお願いします。