2016年7月25日月曜日

都会派宣言。

書肆逆光の素敵なショップカード。


時間はマテリアルなのだろうか、ドローンなのか、、、、今の時点では何もそういった事への返事は中々難しいものの、都市というものを考えた場合、あくまで推測の範囲で何かしらの仮説らしきものは想像する事はできます。
都市とは人々の営みが点で存在し、尚且つ交錯しながら相反しつつも結合している。そう仮定した場合、おのずと田舎というものがその反対の概念として存在させることが出来ます。

都市と聞いていつも思い出す話があります。
ある中年男の話で、毎朝、新聞を読むために長年使用している身体の一部ともいえる愛用の眼鏡。その眼鏡を必ず決まって毎朝起きると綺麗に布巾で拭き上げ、目の前に塵一つ何の汚れも無い様に心がけている、、、。その眼鏡をかけて毎朝新聞を読むのを日課としている男が、あるきっかけから自分の眼鏡越しに毎日うっすらと見える自分の鼻すじが、どうにもこうにも気になりだしてしまう、、、、という話です。絆創膏で隠しても目立たぬように色を塗っても必ず見える自分の鼻すじ。彼は最終的に苛立ち愛用の眼鏡を投げ捨ててしまうのです。

都市とは自分自身の存在すら見えなくなってしまうほどの時間的なマテリアルが忙しく存在し自己を自己と認識できぬほどの他人の人生からの干渉がある、、、、、、のかもしれません。

数か月前書肆逆光の店主からこんな相談をされました。

「ここ最近シティーボーイの側面がアピールされ過ぎている、、、田舎に回帰したい」という事でした。
自己を見失ってしまった事すら忘れてしまうという現象は、都市に生きるものに与えられた最大の弱点でも利点でもあります。

そして、自然を内蔵した素材を使って人間の本当の営みを奪還すべく金継ぎ教室が始まったのでした。都市を捨て自然を思うというコンセプトは勝手な妄想なのですが、参加した生徒の皆様にも十分伝わった様に思われます。偉大な詩人ジェリーウォレスは「男の世界」でこういっています。
人生の至福は田舎にこそあるのだ、、、、と。

シティーボーイなんて言ってねーぞ。田舎に回帰するなんて思ってねーぞ。と怒られそうな雰囲気が若干ございますが、逆光様、生徒の皆様、金継ぎ教室大変ありがとうございました。


信念的な、

アイテムとともに

さりげなく

店主の茶目気もうかがわせるショップカード。

八丁堀へお越しの際は是非。
、、、、、という事で皆様大変ありがとうございました。

2016年7月22日金曜日

マホープロペラは和三盆の味がする。

マホープロペラ。

上塗り成功を祈願。

「人を玩ぶ者徳を喪い、物を玩ぶ者志を喪ふ」と書経にあるそうですが、まさに本日のブログはそれです。

先日、金継ぎ教室の帰りに骨董市で求めた掌に収まる何やら謎めいたもの、少なくても実用第一の道具には到底見えない容姿。
不思議なアウラを感じつつもポケットに詰め込んで帰りの帰路についたのでした、、、、。

どうやら柄と思われる部分にはマホープロペラ、、、、と書かれており、縄文時代から続く「祈り」を直覚したのでした。帰りの電車の中でセルロイド製の羽に西日を透かし、そのプロペラのような触角をじっくりと観察しながらある推測が現実に思えてきたのです。

マホープロペラ。おそらくはこの呪術は昔からそう呼ばれていたのだろうと思われます。

昭和30年代、まだ人類の人知が遥かなる高みを実感するにはまだまだ途中の時代。
漆もこの化学が分からなかったその当時はまだセルロイドの仲間と考えられていました。
セルロイドは硝酸セルロースに樟脳を混ぜアルコールと混和して作る物質です。樟脳とアルコールを混ぜ込む行為は、あたかも金継ぎで使用する紛蒔き用の漆をつくるかのようにも見え、当時の人々が漆とセルロースを混同していた様子が推測されます。

ですから、マホープロペラにセルロイドの羽と触角を取り付けて上塗り成功を祈ったのだろうというような事は容易に想像出来ます。
その胴体の背中についた金属製のジャバラを竹櫛などでジャリジャリと擦りながら町中を練り歩くわけですから、勿論体力は疲弊し、おのずと三日間夜通しの呪術の成功は体力勝負となってくるわけです。

そんな事を考えながら、電車の車窓から見える西日にさらされる町などは、どことか抒情的で美しく思えるのでした。

気がつくと、もう電車は終着駅にたどり着いた様です。
高円寺。まだ中央線の途中ではないか、、、、、と尋ねるも、今日東京はマホープロペラの日だから今日はここで中央線の運転はやめにするのだそう。本当なら国立くらいまで行きたいのだけれど、、、とどことなく虚ろな運転手に手渡された一枚のショップカード。

「マホープロペラで疲れた時に食べたくなるんだ。スイーツ」と、
そう言って彼は高円寺の商店街へと姿を消したのでした。
そのショップカードには器と和菓子「山桜桃屋」と書き記してあります(ゆすらやと読むのだそう)。
恐らくこのお店へ行けばマホープロペラの真実が分かるのかもしれない、とポケットの中のセルロイド製のアウラをキュッと握りしめたのでした。

高円寺駅北口の商店街の中にある和菓子の店「山桜桃」。清潔な真っ白な松でできたテーブルには、さっきの中央線の運転手が先客で少し偉そうに座ってました。
抹茶と和菓子のお店だけあって種類も豊富にあり、何を選んで良いのやら、、、と少し迷ってしまいます。
どのお菓子も美味で、綺麗に器に盛り付けられ見るだけでも癒される思いがしました。

お菓子を食べながら感じたことは、器と食べ物の取り合わせというのは、その選ぶ人の人柄が出るのだ、、、、という事。
選択する、、、という行為はある意味、知識や思考というものを超越した何かヴァイブス的な力を秘めているのかもしれません。

皆様是非、山桜桃屋へ。




冷やしミタラシを注文。

冷たい団子にはあったかいお茶。

練り菓子も豊富。

テーブルには花が添えられ、

ショップカードも素敵。

高円寺北口商店街の中にあり。

我が家で作られたスプーンも使っていただいております。
どうぞスプーンもよろしくお願い致します。


2016年7月20日水曜日

パンチパーマとスキンヘッド

松枝悠希展 7月29日まで。

今月の12日から昨日まで金継ぎ教室の為上京しており、暫くブログの更新が出来ませんでした。なので、本来ならば金継ぎ教室のご報告、、、、をしたい所なのですが、敢えて時系列に逆らって一昨日出かけた展示会について書いてみようと思います。

何かしらの現象を言葉を使って報告する、という行為は記憶と感情をほどほど混ぜこぜにしないとうまい具合に伝達する事が難しく、時間が経てば感情的な情報が摩滅し、ただの記録になってしまいます。
芸術も同じで抑えきれない感情や衝動を表出してこそ本当で、そういったある種動物的とも言える何ものも存在しない芸術などあり得ない、、、、と考えております。

、、、、というのも今回見てきた展示会が予備校時代の後輩、松枝悠希氏の展示会だからという訳ではないのですが、そんな事を再確認させられました、、、、。
彼は、飼い犬か狂犬か、物干し竿かパルチザンか、広角レンズか望遠レンズか、電動か蒸気機関か、と問われたなら間違いなく後者で、気骨稜々たる人物、、、、。
数年前に合った時は色々と気遣いをしてくれたり、昔と変わらず先輩面をさせてくれたり、、、、と人間的に成熟した感じを受けました。なので、きっと作品も大人びた知的な物なのだろう、、、と思いつつ出かけたのでした。

ところがどうでしょうか。アンチテーゼや衝動性は見事に咀嚼され作品の一部へと再構築されており、美しくも大人気を気取らない素直な感性はとても共感でき、細部の作り込みもクリシェには終わらず、神は細部に宿る、、、などと思いを巡らせてしまいました。

パンチパーマとスキンヘッドがビックワンガムを噛みながら利根川の土手に佇む、、、、と何故かそんな牧歌的な風景が脳裏をよぎりました。
、、、、、、この夏の思い出に皆様是非。




飛び出す立体作品。

個人的にはコンセプチュアルにも思えました。

こういった作品たちは、

中々写真で伝えきれない細部の作り込みに醍醐味があるような気がします。

何故かビックワンガムが脳裏をよぎりました。

おそらくはサイコロを射抜いたこのミサイルがそう思わせた要因なのかも。

トランプカードのこの作品は特に作り込みが冴えており、

裸の王様の履くアウトドア用の靴がイカしてました。

何故か牧歌的な気分、
神は細部に宿る、、、、と。
松枝悠希展。南青山「新生堂」にて、今月29日まで、、、。

2016年7月4日月曜日

パルチザン、バーニングスピアー、菓子切り、

骨董雑誌の一ページ。


先日の金継ぎ教室、ついでに手に入れた韓国のお皿、、、、、。ちょっと気に入って色々に使って楽しんでいましたが、昨日、こんな一ページが某骨董雑誌に載っていました。

どういった記事かといいますと、旅行にて見つけたこの皿について色々と書かれており、ギャングスタラッパー風に言うと、根来に似たカッコいい皿を激安で買って帰りに美味い飯たらふく食って帰ってきたぜクールだろ、、、、といった感じなのです。
人間は原罪の重大性と恩寵の必要性を常に意識して生きてゆかねばならない、、、のかもしれません。
人は生まれながらにして罪に汚れており、恩寵の導き無しには善へは向かい得ない、のだと思いました。もっと端的な感想は書き記していく事が中々難しいので、今日はこの辺でやめにします。

、、、、という事で、今日は骨董に合う菓子切りの紹介です。


似ている、、、という事なので、一緒に並べてみた。あまり似てないような、、、、、。

子供の頃、テレビゲームの類の物は全てファミコン、と言っていた祖父母の顔が脳裏をよぎり、
何だか懐かしい気持ちになってしまいました。

敢えてコンビニのお菓子を乗っけてみた。

古美術関係の皆様、古道具に合う菓子切り、どうぞよろしくお願い致します。