2016年4月16日土曜日

パストフューチャー

只今布着せ中。

数日前の事なのですが、数少ない漆仲間のNさんと久々に会ってお話しする機会があり、色々とお喋りをしていた時の事です。

ふとした事からこのブログの話題になり、どうやらNさんも時折読んでくれている様なので、読者の気持ちを知りたくなり、それとなくこのブログの感想をサラリと聞いてみたのです。
すると、、、、、
「文章が長くて回りくどい、読みにくい、、、、。」という返事が返ってきたのです。
なぜかその時、幼少時代のある物語を想起して、ほんの少し脳内の錯乱を感じたのでした。

それは、こんな物語であったと記憶しています。

西暦2000年代の来たるべき21世紀は米国、ソ連間の幾度の戦争により地球上の殆どの地域が廃墟と化し、辛うじて生き残った人々は希望を見失い微笑みすら忘れて久しい時代の30歳後半から45歳位の青年から中年期にさしかかった男性のお話しです。

その男性はスリムのジーパン姿で真赤なランニングシャツの上に袖のビリリとちぎれたジージャンを着ていたと思います。体格は以外に細身なのですが、胸や腕のその隆起した筋肉は恰も外回りの身体を酷使する職業を思わせ、そのファッションこそそれ風であったのなら逞しき漁師などとも見紛う様な身体つき。けれど彼はそうではありません。

彼は4人兄弟の末っ子なのですが、実家の家業を継ぐのは兄弟の内1人だけ、、、という家訓があり、その兄弟の方々と助け合いながら、反駁し幼少期を過ごした様です。長男の方が家業を継ぐのだろうという大方の人々の期待を裏切り長男は非行少年になっています(父親がスポイルしてしまったのだろうと今となっては思うのですが)彼はその後大変苦労した、、、と記憶しています。

彼らの家業は代々続く指圧師です。曾祖父の代から「北斗屋」という屋号を掲げアクロバティックな指圧療法も始めました。当時誰も知らないそのアクロバット指圧は瞬く間に評判となり、一世を風靡しました。
どういった方法かと言いますと、敵対関係にある人々のリンパ部を人差し指や拳でつつき倒し、相手がもういやだというほど、兎角つつくのです。当時は指先一つでダウンさ、などという歌までうたわれる程の盛況ぶりでした。
彼はひと通り指圧療法をし、全てが終わるとこう言い残して去って行くのでした。
「お前はもう死んでいる。」、と。

まさにNさんが言った言葉はこれと同じ気持ちを喚起させたのでありました。
「文章が長くて回りくどくて、読みにくい」とは、筋肉ムキムキの中年男にリンパをつつき倒され、そのあげく「お前はもう死んでいる」、、、、、という事実への目に見える形でのメタファーなのであろうか、、、。うろたえる気持ちを堪えて平静を装うも心中は既に世紀末で、返す言葉が見つからないのでありました。
今後もブログのご愛読どうぞよろしくお願い致します。





ここ数日はお椀の布着せ。着古した着物をキセモノ布として使います。

本当なら、作業工程を写真に撮れれば良いのですが、仕事中にカメラを使うといった1人2役は無理な様です。



布着せについては次回あらためてご報告と思っております
どうぞよろしくお願い致します。

2016年4月8日金曜日

相田啓介:人工知能

囲碁、は、かつて呪術的側面もあり、大古の人々は積み上げ式囲碁で占いもしていた。

 世界の囲碁トッププロ、韓国のイ・セドル氏が人工知能・コンピュータを相手に一対四で敗れ何かと世界中の話題になっています。

囲碁の着手の流れは無限に近いものであり、その中でプロの囲碁棋士は何を頼りに着手を決定するのでしょうか。それは、経験と読みと芸術的直感によるものと思われます。
プロの読みとはどれほどのものなのでしょうか。まず、初心者に近いアマチュアの場合、こういく、こうくる、こういく、とまあ三手ほどの読みです。アマチュアの高段者の場合は20~30手ほどを、時間をかれば読めるようです。精度はあまり高くありません。アマチュア全国大会常連クラスともなればその数倍をある程度速い時間内に正確に読む事が出来ます。プロともなれば次元が違います。その、数倍、数十倍あるいは数百倍の然も正確な読みかと思われます。

トッププロともなれば読む先の出来上がり図が次々と頭の中に浮かぶとも云われています。
読みの道筋には枝分かれの道が次々と現れ短い時間の間にそれを全て読み切る訳にはゆきません。その取拾選択をするのは芸術的直感力なのです。コンピューターにはそれができないのです。
従って適当な手をやたらによみまくるしかないのです。

まず、人工知能の場合学習をさせます。3000万局以上の対局を学習させたそうです。勿論プロの碁もアマチュアの碁も含みます。そうすることで無駄な手を排除出来るようになります。そうしたうえで読むのです。やたらめったらに読みまくり、読む回数の多かったプロセスの内、次の一手を着手するのだそうです。
そしてコンピュータの中で2手に分かれて実践を繰り返していき、ひとりでに強くなるのだそうです。何せ最新のサーバーを300台~1000台組み合わせたスーパーコンピュータですから恐ろしいものです。

私が一連のこの対局の中で感動したのはイ・セドル氏という棋士が敗戦の後で見せた言動であり尽きる事の無い闘魂であり、4局目の中で乾坤一擲の勝負手であり、そしてその局に勝ったあとのすばらしい笑顔であったのです。機械に感動はあり得ないのです。

人工知能は様々な分野での活躍が期待されているそうです。近い将来多くの分野で人間に取って変わって人工知能が仕事をするようになるそうです。取って変わられた人間はどうなるのでしょうか。職を失う事になります。ちょっと想像してほしいのです。人間が必要なくなった工場、会社、都会にはほんの一握りの人間しか必要がないのです。田舎の田畑も大規模なロボットによる耕作が進み小さな農業者は生き残れません。残りの人間は死ぬか、スラムに生きるか田舎の見捨てられた地で自給自足をするか。商品を買う人も少なくなるでしょう。

人工知能を考える時、私は暗い未来しか見えてこないのです。一部の富をあやつる人にとっては素晴らしいものかもしれませんが、人類にとってはとんでもない代物としか思えないのです。

人には其々芸術的直感、感覚、感性があります。そうであるからこそイ・セドル氏は人工知能と互角に近い戦いをしたのであり私たちの感動を呼んだのです。


こうくる、こういく、こうくる、

こういく、こうくる、

こうくる、こういく、、、、、ロ、ロボットだっ、、、。

、、、と、先日の小皿少し大きめに改良してみました。

2016年4月5日火曜日

美術感

逆光作:旅立ち


ここ数日、何かと美術について考える事が多いようです。

傍から見れば一見、何もとりたて価値のありそうも無い物にサインや題名を付けて、美術品としての付加価値を付与し、その一連の作品と思わしきガラクタとも見分けのつかないモノを美術と称して自己表現の手段とする、、、、、。

すでに存在する物を、恰も存在しなかったかの様に偽装する事で、この捏造された美術のモニュメントは世界から切り抜かれた個人の一方的な解釈の手管として機能する、、、、。

ごく一般の考え方、ごく一般の社会的概念、といったステロタイプをモニュメントの偽造行為によって更新してゆく20世紀の美術は、そういった「美」の解釈の更新によって、進化しつつ、又ある意味で後退しながら世間一般の美術の概念は構築されている、、、、のかもしれません。

と、いうのも美術的行動、又はそういった発言というものが、如何やら流行しつつあるようなのです。
例えば、ごく普通に歩いているように見えても、歩いている本人は一歩一歩確実にその行動に美術を意識し、自己表現を実行しようとする。そうすると、腕の振り、足運び、若しくは体の全体に、心的な凝視を駆使して感じ取れる、微弱な美術がそこかしこに宿り、やがてその行動自体が美術してゆく、、、、。
それは、物を買うといった行動にも応用されるようになり、ただ普通に買い物をするのではなく、その買うという行動に強く美術を意識する事によって、買う対象が何であれ、自己表現が顕在化し買うといった行動が自己顕示化してゆく、、、、。
例えば、お昼ご飯に食べるおにぎりの食材を買いに行き、色々と美術な食材を買って、美術しながらおにぎりを握ったとします。そうすると、おにぎり一個が美術品となり、その価格たるや、数百万~数千万円の素敵な美術が実行されるわけです。
「いや~、僕、美術で食材を買っているんで、このおにぎり一個500万円するんですよ~。」
と、そんなセールストークも通用する未来がやってくるかもしれません、、、、、。


と、そんな美術の概念などというような事は置いといて、先日の金継ぎ教室は、思いの強い方々のやる気に圧倒され、生徒の皆さんの様に強い気持ちがないと何事も貫徹できないぞ、、、、と、自分自身に言い聞かせ、手工芸の明るい未来を奪還するのだと意味も無く前向きになるのでした。
皆様どうもありがとうございました。

  
逆光作:たそがれ

、、、、と題名を付けたくなる店内。書肆逆光にて。

金継ぎ教室の情景。

金継ぎ教室、今後もどうぞよろしくお願い致します。